ひとはいつ大人になるのだろうか。少年、青年、いろいろな呼び方があるように成長の過程はグラデーションを成している。ある日を境に突然大人になるわけもない。楽しかった日々、とにかく面白いことに飢えていた日々を懐かしく思い出すことはあっても、ではいつ何を境にそんな日々が過去のものとなってしまったのか正確に思い出すのは難しい。気が付いてみれば、それは古き良き日、決して戻ることのできない日々になって現われるから。映画アメリカン・グラフィティ(’73)はそんな誰もがはっきりとは思いだせない瞬間をフィルムに収めることに成功して大ヒットした。

舞台は1962年のカリフォルニア郊外の町、その町に暮らす若者達が高校生活最後の夜を遊び明かす。その一晩の生態を、恋愛、車、音楽、ファッション、進路選択、様々な感情の交錯をおりまぜながら描写していく。青年達はダンスやナンパや悪ふざけに没頭しているかに見えて、どこかでそんなバカ騒ぎや無邪気が日々がもうそんなに長くは続かないことも予感している。そんな予感を振り払うかのように高校生活最後の夜を賑やかな思い出で埋め尽くしていく。やがてのぼり始めた太陽とともに夜は明け、それぞれの進むべき道への決意を固め旅立ちの朝をむかえる。これから彼等を待ち受ける困難を予感しつつも。。。

この青春映画の傑作に付けられたタイトルはしかし”Growing Up - 成長”ではなく、”American Graffiti - アメリカの落書き”だった。1973年に公開されたこの映画が、その舞台にあえて1962年を選んだこととあわせて考えれば、そこには”アメリカ自身の古き良き日の思い出”が重ねあわされていることが分かる。ただ、1962年という設定は古き良き日という意味では既に微妙なタイミングだった。それは黄金の50年代が既に終わり、激動の60年代の幕開けとの端境期(はざかいき)。新しい変革の時代の到来を遠くに予感しつつも、ひとまず豊かで平穏な日々に暮らしているような時期だった。62年という舞台が選ばれたことによって、主人公の青年達の旅立ちは、アメリカの古き良き日の”終焉”のメタファーとして、この映画に単なる青春映画以上の独特の陰影を与えた。

"I don't like that surfing shit. Rock 'n Roll's been going downhill ever since Buddy Holly died. "

デュースクーペを駆るジョンミルナーは50年代にあまりに深くコミットし過ぎた男として終わり行く時代を一身に背負っていた。”バディホリーが死んでからロックンロールはすっかり骨抜きになっちまった”。映画のシーンには露骨に60年代を表象するようなアイコンは登場しないが、映画全体は次第に忍び寄る混迷と激動の60年代の”気配”に満ちていた。ロールアップしたTシャツの袖にキャメルをしのばせ、リーゼントヘアでビーチボーイズの流行を怖れ忌み嫌うミルナーの発言は、実質的な50年代の幕引きと60年代の幕開けを誰もが感じはじめていたことを表していた。

ビートルズ、ボブデュラン、ケネディ暗殺、公民権運動、ベトナム戦争、キング牧師暗殺、ヒッピー、反戦、第四次中東戦争、オイルショック〜ニクソンショック。映画の舞台となった1962年以後、この映画が公開された1973年まで、そのたった10年の間に、アメリカは文化、政治、経済、あらゆる面で劇的な変革を経験した。ゆるぎないかに見えた旧い秩序は、進歩的、挑戦的な価値観からのチャレンジに揺らいだ。迷走するベトナム戦争は国内を分断するような反戦運動を招き、戦争の長期化や介入規模の拡大は自由主義陣営を支える巨大な富といわれたアメリカ経済の影響力の大幅な低下、相対化を招いた。気がついてみれば、何もかもがむかしのように単純にはいかなくなっていた。単純から複雑へ、同質性から多様性へ、絶対から相対へ、文化、宗教、政治、経済、外交、全ての分野で単純にはときほぐすことのできない課題と長く向き合っていかななければならない時代に迷い混んでしまった。

”我々は一体いつの間にこんなやっかいな問題を背負い込んでしまったのか。” 73年に公開されたこの映画を歴史的な興行的成功にまで押し上げた原動力には、サイレントマジョリティと呼ばれたアメリカ国民の多くの抱いていた、この懐古趣味とも保守反動とも後悔とも反省ともとれるセンチメントがあった。進歩を信じて革新と反動に揺れながらも歩み続けたこの激動の10年間の試練、体験を経てこそ、この1962年の夏の夜の”落書き”はかけがえのない無垢な輝きを放つことになった。”1962年の夏、あなたはどこで何をしていましたか ”。10年間を実際に経験し生き抜いたアメリカ国民がその経験を思いながらこの映画を観たとき、青年達の青春と暗示される前途は単なる個人的青春の記憶を超えた国民的記憶、アメリカの激動の60年代への隠喩として観客の心をとらえ、揺さぶった。

JFK政権下で、軍事力上の圧倒的優勢と短期圧勝を信じて始められたベトナム内戦への直接的軍事介入は、しかし間もなく泥沼化していった。50年代末、ジョンソン政権下で500人規模の軍事顧問団派遣にとどまっていた米兵の派遣規模は、逐次投入が続き68年〜69年のピーク時には52万人にまで拡大した。この戦争でアメリカは最終的に米軍側死者6万人、負傷者15万人、ベトナム側死者200万人、負傷者300万人に上る壮絶な犠牲を出したにも関わらず、当初の目的はおろか、事実上内戦を停止・終結させることもできないままの撤退を余儀なくされた。激動の60年代の象徴ともいえるこの負け戦は、アメリカン・グラフィティが公開された1973年に、パリ和平協定により終結を迎えた。ベトナムへの本格的な軍事介入に踏み切ることになるJFKが大統領に就任したのは1960年、軍事援助の増強が本格化したのは、同映画の舞台の年、1962年のことだった。

 

監督のジョージ・ルーカスは、この映画の製作の後、ベトナム戦争の暗影を主題とするベトナムの戦場そのものを舞台とする映画製作を企画するが、スター・ウオーズの作成に専念するために、その企画をフランシス・コッポラに譲り渡した。コッポラはこの企画を”地獄の黙示録”として1979年に完成させている。