アメリカのTVバラエティ番組の特徴と魅力のひとつに番組専属の生バンドの存在がある。バンドは単に演奏をするためだけにいる訳ではなく、魅力的なパーソナリティとウィットを備えたホスト(MC)の”相棒役”を果たす。ホストとバンドマスターとの掛け合いは番組の名物となっているケースも多い。CBSネットワークの”レイトショー”におけるデイビッド・レターマンとポール・シェイファ、NBCならば”ザ・トゥナイト・ショー”のジェイ・レノとケビン・ユーバンクス、”レイトナイト”のコナン・オブライアンとマックス・ワインバーグ。オープニングだけでなく、CM前のジングルやアドリブ的な効果音の挿入など、統制の利いた歯切れのいいバンドの生演奏が番組にライブならではの華やかさとテンポを与える。日本のバラエティ番組と比べると放送時間帯が深夜に及ぶこともあり、いかにも大人向けの贅沢でなおかつリラックスしたトークとムードをかもし出す。日本にもこんな構成の番組がひとつくらいあってもいい。そうなるとホストはやっぱり大橋巨泉かタモリあたりか? Gimmie a breakって。

失敬。そんなアメリカ流のTVバラエティショーの中でも、 1975年の放送開始以来現在まで実に30年以上続く長寿番組となっているのがSNL(サタデー・ナイト・ライブ)。帯のトークバラエティと比べるとホストのパーソナリティで引っ張るというよりはスケッチコメディと呼ばれる短編の風刺コントをレギュラーのコメディア達が演じる構成が中心となる。ジェイクとエルウッドのブルース・ブラザースはもともとはSNL のスケッチから生まれたキャラクタだったが、さらに源流 をたどれば、 SNLレギュラーだったダン・エイクロイドのブルースへの情熱が周囲を巻き込んでふくらんでいったものだった。

75年のSNL放送開始にあたり、すでに親友であったジョン・ベルーシとダン・エイクロイドは共にレギュラーメンバに抜擢された。もともと熱狂的なブルース・ファンであったダン・エイクロイドに感化され、ジョン・ベルーシも次第にブルースに傾倒、二人はほどなくブルース、R&B、ソウルミュージックを主体とするバンド活動を始める。最初は楽屋裏の ”部活”だったバンド活動は彼等の音楽的才能もあってSNLのミュージカルスケッチにも取り入れられるようになる。彼等がSNLで最初にブルースを披露したのは1976年1月17日の回だった。番組専属バンドSNLバンドのリーダ、ハワード・ショアとともに蜂の着ぐるみで登場し、”Howard Shore and his all bee band”を名乗ってブルースシンガーのスリム・ハーポの”I‘m a King Bee”を演奏した。ハワードは二人のプライベートでの”ブルース熱”を茶化して、楽屋裏で二人のことを”ブルース・ブラザース”と呼んでいた。

この楽屋オチ的悪乗りは、幸運にもエスカレートしていく。エイクロイドは敬愛するジョン・リー・フッカーなどのブルース・R&Bミュージシャンのスタイルを取り入れてあの黒いストレートジャケット、ポークパイハット、サングラスのアイコンを作り上げると同時に、後の映画化の種となる着想やキャラクタ設定のアイディアをあたためていった。当時、SNLバンドのアレンジを事実上仕切っていたポールシェイファの人脈とコーディネーションでブルース兄弟をバックアップする強力なミュージシャン達が召集される。サザンソウルの雄、STAXサウンドの黄金期を支えた Booker T & The M.G.s のギタリスト、スティーブ・クロッパーとベースのドナルド・ダック・ダン、シカゴブルースからはギターのマット・マーフィー、ホーンセクションはSNLバンドがサポートした。いずれもプロフェッショナルと言う表現がぴったりの懐の深い、それでいてメインの魅力を引き立てることに長けた一流のスタジオミュージシャン達だった。シェイファの手によってブルース、R&B、ジャズそれぞれのプレイヤのバックグラウンドは絶妙にブレンドされ、ブルース・ブラザース・バンドのクレジットで78年にリリースされたファースト・フル・アルバム "Briefcase Full of Blues"はスマッシュヒットを記録した。

アルバムのライナーノーツではブルース兄弟に過去の生い立ちが与えられた。曰く、イリノイ州のカトリック系孤児院で育った二人は幼くして孤児院の用務員カーティスからブルースを教えこまれ、夜な夜な地下室でブルースの演奏に興じるようになる。ある晩、少年達はエルモア・ジェームス由来のギターの弦を使って”兄弟の契り”の儀式を交わし、魂の兄弟、ブルース兄弟となった云々。。。

一部の音楽評論家やミュージシャンからはブルースの魂をハリウッドに売り渡す行為、ブルースを戯画化・安売りする行為との批判も出た。しかし、かれらの作品・ライブパフォーマンスに触れたことのある者であれば、そういった批判が的はずれであることにすぐに気がつく。それは単に器用なコメディアンがブルースをネタにコメディ映画をつくった、ブルースのパロディを演じた、という域を超えていたし、また逆にブルースへの情熱や趣味の世界への自己陶酔、自己満足という類のかくし芸的なノリとも一線を画していた。ブルースブラザースはR&Bへの深い敬愛の念とコメディアン・ライタとしての天才的なセンスとの奇跡的な融合によってのみ成しえたギフトだった。”ジョン・ベルーシはそんじょそこらのミュージシャンでは太刀打ちできないずば抜けたリズム感の持ち主だったよ。”ブルースブラザースとのツアーに同行したMGsのギタリスト、スティーブ・クロッパーはそう証言して表面的な批判を一蹴する。

こんな風に書くと、音楽的な要素ばかりが強調されがちだが、映画に関して言えば、ライターとしてのエイクロイドの、車・ポリス・ミリタリーオタクとしての暴走ぶり、悪乗りっぷりも大きな魅力のひとつといえる。オタク的こだわりとコミカルなスクリプトとのブレンドもこの映画の、しいてはブルース兄弟の大きな魅力になっている。ブルース兄弟とならんで主役級の存在感をみせるブルースモービル(要するに兄弟が劇中で乗りまわす車)。このブルース専用車に選ばれたのは74年型のダッジモナコ。イリノイ州警察の格安払い下げ品、という設定だった。よく見れば白と黒のツートン!。オールドスクール(時代遅れ?)なブルース兄弟の佇まいにこのくたびれた型落ちのフルサイズセダンをあてがうセンスは、それだけでも車好き、セダン好きをうならせるに充分なチョイスだったが、この車中で交わされる二人の会話は、またそれに輪をかけて”ブルース”だった。

映画は、弟のエルウッドがこの”ブルース専用車”で、刑期を終えて出所する兄を出迎えるシーンから始まる。 やっと出所したと思ったら、再びパトカー”みたいな”車での出迎えを受け、当然、不機嫌な兄貴とそれを全く意に介さない弟の会話がこんな感じで始まる。

(刑務所をあとにして街に向かう車中にて。。。 )

 兄: ”何なんだよ、こいつは。”

 弟: ”え?”

 兄: ”この車だよ。この、人をコケにした車。キャディラックは?あのキャディはどうした?”

 弟: ”え?”

 兄: ” 俺たちが乗ってたキャディに決まってんだろ!あのブルース専用車だよ。”

 弟: ”とっかえた。”

 兄: ”このポンコツとキャディをか?

 弟: ”いや、マイクと。”

 兄: ”マイク? ならまだわかる。でも、そんじゃ、このなめた車はなんなんだよ。”

 弟: ”これはお買い得だったよ。イリノイ州警察の払い下げオークションで手にいれた掘り出しものさ。何しろタダ同然だったんだから” 

 兄: ” そ−かい、相棒。ありがたい話だね。やっとムショから出れたその日に、杯を分けた兄弟分がポリ公の車でお出迎えしてくれるとはね。”

 弟: ”気に入ってないの?”

 兄: ”気にいらね。”

すると、弟のエルウッドはやにむにフルアクセルでそのフルサイズセダンをスタートさせ、遮断機をつきやぶって上がりかけた開閉式の橋に突っ込んでいく。 上がりかけた橋板をジャンプ台にして、モナコは大きくバウンドしながらも川を飛びこえて、向こう岸の橋板に着地する。 ジャンプは成功したものの、弟の無茶な行動に、すっかりビビッて引き気味の兄のジェイク。

 兄: ”す、すごい馬力っすね。。”

 弟: ”警察仕様のハイパフォーマンスエンジンだろ、警察仕様のタイヤに、警察仕様のサスペンション、それに警察仕様のショックアブソーバまでついているし、排ガス規制前の触媒レス440プラントでレギュラーガスでもこの通り文句ない走りさ。どうだい?これこそ新しいブルースモービルにふさわしい車だろ。”

パトカーで向かえにくる無神経ぶりにキレている兄貴に対してポリスパッケージのお買い得車だと自慢げに”警察仕様”を連発するこのすれ違いっぷりとマニアックぶりがたまらない 。映画全編にこんなササるひとにはササる会話がちりばめられている。

きりがないのでもうやめる。とにかく、ジョン・ベルーシのコメディアンとしての天性の魅力とダン・エイクロイドのライタ(そして車・ポリス オタク)としてのセンス、そして二人のR&Bへの情熱とバックを固めるプロフェッショナルなバンドメンバ。すべてが適切なタイミングに適切な場所にそろったことで、かれらのパフォーマンスは、そしてその結晶、結実としての映画ブルース・ブラザースはとてもひとつのジャンルで括ることのできない傑作となった。凸凹コンビのスラップスティック、R&B・ブルースの大御所の豪華キャストによるミュージカル&ライブパフォーマンス、史上最も多くのパトカーが大破したカーアクション、どれもこの映画の魅力の要素ではあるけれど、その全体が渾然となって放つ独特の魅力の前に安直なカテゴリ分けや、饒舌な解説は敗北せざるを得ない。そのコメディやパフォーマンスが上質であればあるほど、それを言葉で説明しようとする努力はゲスで野暮な試みとならざるを得ないから。