ヨーロッパ流の洗練されたモータースポーツの伝統とは一線を画すアメリカ南部に興ったプロフェッショナル・レース。そのレースはアメリカ製の大排気量フルサイズセダンの市販車で行われたことからストックカー・レースと呼ばれるようになった。日本ではNAC(日本オートモービル・クラブ)が早くから本国アメリカのNASCAR流の興行的なレース運営を取り入れるかたちで、国内に展開した。NACの前身である105マイルクラブが国内で最初のストックカーレースを開催したのは1963年の11月。戦後の日本のレース史は1963年5月に開催された第一回日本グランプリに始まるとされるから、国内のストックカーの歴史は国内のレースの黎明とともにあったことになる。68年から70年にかけての最盛期にはグランドナショナルストックカー選手権として、シリーズ戦をたたかうまでの規模に拡大。雑誌の巻頭をかざる人気シリーズにまで成長していった。しかし推進母体であったNACがJAFとの対立から事実上の公認剥奪を受けて孤立してしまったことに加え、オイルショックなど時代の向かい風が重なり、国内ストックカーは70年代前半には主要レースシーンから姿を消してしまう。強まる政治的色合いに屈することなくストックカーレースへの情熱を貫いたが故に短命に終わった国内ストッカーは、またそれ故に利権の手垢にまみれることなく、レース史を走りぬけた一瞬の光陰として当時を知る人たちの記憶に刻まれることになった。いまや、存在したことすら忘れ去られようとしている国内ストックカーとはどのようなシーンだったのだろうか。

本国アメリカのストックカーレースは、禁酒法時代に密造酒の運び屋達が始めた草レースが起源だとされる。ルーツにアウトローが出てくるところはアメリカ的な由緒正しき伝統・習わしのお約束だが、この話はまんざら作り話でもない。60年代に活躍した伝説的ストックカー・レーサ、ジュニア・ジョンソン。映画”ラストアメリカンヒーロ”のモデルにもなったジュニアは、密造酒の運び屋時代の前科のため、レーガンが86年に恩赦を与えるまで選挙権を剥奪されていた。レーサでもありプロモータでもあったビル・フランスは、そんな地方で散発的、非公式に行われていた草レースをオーガナイズし、1948年に運営母体となるNASCARを設立する。NASCAR創設パートナのひとりタッセルは当時を振り返る - ”我々の投げたボールを受け取ってくれる者は誰もいなかった。誰もNASCARのフランチャイズに興味がなかった。東部のプロモータミーティングに行った時、彼等は私を子ども扱いしかしてくれなかった。”しかし、やがて地道な活動は実り、1950年には東部の大物プロモータ・エド・オットーをはじめ西海岸や中西部のプロモータがNASCARへの加盟を表明する。 このブレーク・スルーを機に NASCAR=ストックカーレースは全国区のプロフェッショナル・レース・シリーズへと昇華していく。

アメリカでNASCARの人気が過熱とも言える最高潮に達したのは60年代末。トップクラスのグランドナショナルシリーズを戦う車両は排気量7000CC、車重は1.8トンに達しようとしていた。大排気量のエンジンと強烈なバンク角を持つ単純なオーバル周回コースという組み合わせはマシンの限界ぎりぎりのハイスピードを生んだ。大排気量が生み出す強大なエンジントルクに比べれば、効かないに等しいブレーキと、”きっかけ”さえあればどこからでもテールスライドを始める厄介な重量級フルサイズボディ。こんなとんでもないシロモノを力と腕でねじ伏せるのがストックカー・レーサの仕事となった。時速300キロの限界スピードで前を行くマシンのスリップストリームに貼り付き、ヒッティングも辞さないせり合いをしかける。鈴木誠一はそんな69年から71年のデイトナ参戦を経験した − ”とにかく荒っぽいことこの上ない。抜くときも、みんな接触せんばかりにスレスレに抜いていく。もしあたったら・・・・というようなことは考えない。アクセルは絶対に戻さない、追いついたらどこからでも強引に抜く、といった信念をもって突っ走っている感じだよ。 クラッチにしても、ブレーキやステアリングにしてもえらく重い。特にブレーキはひどい。恐ろしく重い上に効かないんだ。しかもすぐにフェードしてしまう。ブレーキは全車ドラム式だけど、この効きの悪さはどうやらお客さんを喜ばせるものらしい。このあたりはショーの要素を取り入れたいかにもアメリカ的なやり方だ。”

”早く日本でもこんなレースをやりたい。”アメリカ流のプロフェッショナルなレース運営を早くから志向していたNAC塩沢進午は鈴木誠一をはじめとするレーサ達とともに国内シーンの実現・拡大に尽力した。彼等が目指したのは単なるNASCARのフランチャイズあるいはコピーとしてのそれではなく、あくまで国産のフルサイズセダンで、そのスピリットや迫力を実現すること、そしてプロ野球やプロゴルフと肩を並べるような集客力・興行性をもったレースへと成長させることだった。多くのレーサに門戸を開放するべくレギュレーションも工夫された。NASCARのスポーツマン・ディビジョンに認められているようなエンジンのスワップやモディフィケーションを認め、この結果、タクシー上がりのセドリック・グロリアのボディにプレジデントのOHV3000CCエンジンを換装するという定番仕様が生まれた。当然、こんな重厚長大な車種、エンジンへのスポーツ・パーツ、スポーツ・キットの供給はなく、しかしそのことは逆に鈴木誠一や伊能祥光といったレーサでありながら自ら独創的なチューニングを試行錯誤しながら実践、開発していくスタイルを生んだ。”とにかく間口が広い。競争したい人はいつでもいらっしゃい、という世界だった。走ってて面白かったしね。激しくぶつかってもがっちりしたロールバーで守られているから怖くない。トルクのあるエンジンだから、踏めばその分盛り上がるのが気分がいい。それに、自分の好きなようにクルマがいじれるっていうのが、またいいんだ。”−伊能祥光

68年8月のストックカー富士ではエントリは30台を超え、この年からレースはシリーズ戦の形式を取り入れる。70年3月のストックカー富士ではエントリは40台に達し、この年には4回のシリーズ戦が開催されるまでの規模となる。70年のシリーズ最終戦、特に11月23日のストックカー富士200マイルではスター選手、ライバル・マシンがそろい、シリーズ最終戦を盛り上げた。NASCARのグランナショナル7Lクラスからタイニー・ランドが来日参戦。常勝を誇るセドリック・グロリア勢に対し、トヨタ自販の全面的なバックアップを受けた蟹江光正がセンチュリーのV8を積んだクラウンのハードトップでポールポジションからのスタート。これを東名自動車チューンの丸善テクニカを駆る鈴木誠一、70年のシリーズでポイントリーダとなっていた田村三夫がプレジデントの直6OHV3Lエンジンを積んだセドリックで迎え撃った。このレースの模様は翌年年初のAUTOSPORTSの巻頭カラーを割いて伝えられた。71年7月ストッカー筑波100にはその年に発売されたニューセドリックの2ドア・ハードトップボディ(K230)が登場する。チューンを担当したのは東名自動車だが、鈴木誠一の駆る有名な東名カラーのニュー・セドリック(K230)の登場は71年のシリーズ最終戦ストッカー富士200マイルから。このとき鈴木自身は3位入賞。優勝は寺西孝利の駆る東名チューンのニューセドリックだった。空力特性に優れたハードトップボディの登場や、スリックタイヤの急速な性能向上により周回スピードは一段と高速化していった。フルサイズセダンの車格をもちながら、ハードトップの美しく洗練されたボディラインの登場は、国内ストックカーの新時代の到来を予感させた。

続く1972年はしかし国内ストックカーシーンの事実上の終焉の年となる。60年代の日本経済の高度成長の結果、気がつけばモータ・スポーツの世界も巨大なビジネス利権や許認可権限と無縁ではいられなくなっていた。日本経済が成長から成熟への調整過程に入った70年代は、こうした利権をめぐる政治的動き、官僚支配が進行し、根を張ってしまった時期でもあった。モータ・スポーツもその例外ではなく、レーストラックの建設ブーム、レース運営や安全部品の許認可など、周辺に広がるビジネスやその利権の臭いを政治家、官僚OBが見逃すことはなかった。63年に公益法人として発足したJAFは同時にFIAの日本代表クラブとなっていたJAAを吸収し、その位置づけを継承した。結果、FIAの方針から、JAFは国内唯一のレース公認権限を握る団体となったが、その組織の幹部には警察庁・運輸省(国土交通省)OBが名前を連ねていた。モータ・スポーツへの純粋な情熱というよりは、権益掌握・天下り先確保を動機とするJAF幹部の行動は、しばしば日本モータスポーツを黎明期から現場で支えてきたレーサ、現場関係者、愛好家たちの反発を招いた。

日本最古にして最大のレース主催クラブでもあったNACは、レーサ・関係者側の立場を代表しながらも、こうした対立の収拾を模索する。また、レースの運営だけでなく、レーサの処遇改善にも尽力し、NASCARのスタイルに習い日本で初めてドライバの保険契約を成立させたのもNACであった。モータスポーツをプロフェッショナルなスポーツあるいはビジネスに昇華させる上で、NACには貴重な経験と実践的知識の蓄積があった。しかし、そんなNACの存在感は、それゆえに政治的な性格を強めたJAFにとってはけむたい存在となっていく。結果、レーサやクラブの声を代表するNACはその交渉・仲介努力の故に、逆にJAFと軋轢を生じることが多くなっていく。最終的には安全タンクのレギュレーションをめぐる問題を決定的な決裂点として、もともとはJAFに加盟登録をおおこなった最初のクラブであったNACは、72年3月にJAFを脱退。この結果NAC主催のレースはJAFの公認のない非公認レースの扱いとなった。この事態はNACの運営するレースへの参加ドライバのライセンス剥奪やレース開催場所の公認レーストラック免許剥奪などの可能性を孕むこととなり、事実上レースの運営・シリーズの存続は困難な状況に陥っていった。JAF脱退後、組織名称をNAK(日本オートモビル協会)と変更して、非公認のままなんとか1972年の4つのシリーズ戦の運営を完遂すると、73年NACはついにその活動を停止した。そんなJAF脱退後の非公認レースの中でも72年7月に開催された”むつ湾国際級ストッカー300キロ”は観客9万人を動員する国内ストックカーシーンの”最後の大勝負”となった。このレースの模様とそこに至る経緯の詳細についてはオートスポーツ誌のアーカイブ、日本の名レース100選の034巻に関係者の証言や貴重な当時の資料とともに詳細がまとめられている。

NACのJAF脱退劇をどのように表現してみたところで歴史の事実・結末がくつがえるわけでもない。経緯や真相がどうであったにしろ、ストックカー・レースは日本国内でプロフェッショナルなスペクテイタ(観衆を楽しませるプロ・スポーツ)へと成長していくための推進母体、足がかりを失った。結果、鈴木誠一や塩沢進午がビジョンを示してくれたプロフェッショナル・ストッカーの世界は、半ば成功しつつも、政治に翻弄され、国内に定着することなく姿を消していった。しかし、彼らの情熱と才能が日本のモータスポーツ史に咲かせたこのあだ花は、その純粋さを貫いたことで、かえってレースというものが本来もっている原初のエネルギーとパワーを、より純粋なかたちで歴史に残すことに成功したともいえる。ハングリーで粗野ではあるが情熱と希望と可能性に満ちていたモータスポーツ黎明期のレース・シーン。本当は日本経済の戦後の復興を支えた原動力も、こうした黎明期のレースに満ち満ちていたハングリ精神と共通するような生き生きとしたパワーだったのではないだろうか。だとすれば、ストックカーシーンもまた、風化しようとしている戦後日本の原風景のひとつだと言える。国内ストッカーのピックアップはピーク時でも3000CC、250馬力レベルに届くかどうかで、本場米国の7Lスペックには遠くおよばなかった。にもかかわらず、当時の写真や、関係者の証言から伝わってくる気迫や精神には、かたちや見かけ上のスペック比較云々を超越したオリジナルなプライドがみなぎっている。それどころかむしろ、そんな技術的、環境的劣勢を明日への希望やエネルギーに変えて挑み続けた敢闘精神こそが、現代を生きる我々の魂をいまだにゆさぶり、刺激し続ける逞しさの本質なのかもしれない。日本経済が豊かになり、成熟していく中で忘れ去られ、覆い隠されてしまったスピリットが、そこには確かに息づいていた。

当時は東京でさえ”戦後”の空気を引きずったドヤ街やどぶ板通りが、まだがそこここに残っていた。そんなハングリな境遇に育ち、少年院でボクシングに目覚めた青年、矢吹丈がプロボクサーとして成功していくストーリ ”明日のジョー”が少年マガジンで連載開始されたのもこの頃、正確には1967年12月のことだった。連載はたちまち社会現象ともいえる人気を集め、1973年5月、世界戦を終えて真っ白な灰のように燃え尽きた姿でリングサイドに佇むジョーの姿をスポットが照らす伝説的ラストカットで幕を閉じた。日本人が今日のような物質的豊かさをまさに手にいれようとしていたこの時期、その豊かさと引き換えに、荒削りではあるが強烈なエネルギーを秘めたハングリ・スピリット、チャレンジ・スピリットを失いつつあるのでは、という直感・焦燥感もまた、うつろではあるが国民の中に既にあったのかもしれない。日本中がそんな予感を振り払うかのように、矢吹丈のクロスカウンターに熱狂し、そのストイックな世界と共鳴し、同化ようとしていた。昭和が最終コーナを回ろうとしていたその時代、タクシーあがりのセダンボディに創意工夫のモディファイで気迫に満ちたレースを展開した猛者達がいた。ストックカーレースと呼ばれたその自動車レースはそのとき日本国内に確かに存在し、観客を魅了した。それはいまから40年ほど前の話、昭和40年代後半のできごとであった。