日本国内でストックカーレースを興行的プロスポーツに成長させるというNAC(NAK)の野心的な試みはその解散とともに夢とついえた。しかし、NACのJAF脱退から一年あまりのブランクを経て、1973年5月には再びストックカーレースがJAF公認のもとで開催される機会が訪れる。レースを主催したのは塩澤進午の実弟、塩澤三子夫率いるJRSCC。塩澤進午自身はNAC解散後、レース運営に直接かかわることはなかったと言われているが、筑波で開催されたそのレースには鈴木誠一をはじめ、伊納、寺西、鯉沼、勝、松本、松波といったNAC時代の主要ドライバーが一同に会した。トップを飾ったのはゼッケン84、丸善テクニカ東名セドリック(K230)を駆った鈴木誠一。ストックカーレース復活の気運に華をそえた。しかし、というべきか、やはり、というべきか、このような豪華な顔ぶれでのストッカー開催はこの‘73筑波が最初で最後となった。JRSCCによるストックカーレースはその後も年2回程度のペースで継続開催されるようになるが、鈴木、寺西、田村といったドライバーは当時、既にツーリングカーやフォーミュラに活動の中心を移しつつあった。また、そもそもJRSCCはアマチュアレース、サーキットトライアルなど、入門者向けレースのオーガナイズを中心とするクラブであり、継続的に運営されたストックカー(SC)カテゴリは、あくまでそうしたアマチュアレース・登竜門的レースの1カテゴリとしての性格を強めていった。おりしもオイルショックによるレース活動自粛ムード、アメリカン・プロレーシングの推進母体NACの解散といった向かい風が吹き荒れていた。この時代の趨勢の中で、もともと異端視されていたストックカーレースがメジャー・レース、プロフェッショナルレースとして存続・発展することはやはり難しかった。

しかしJRSCCのストックカーにはNACとはまた全く異なった独特の魅力や活気があった。個人的には430や330のストックカー・レーサ(丸目4灯!)が存在し、公認レースを戦っていた、という事実だけでも充分に刺激的だが、JAFのレース記録を参照すると、80年代中盤の出走車両には例えば マフィアオート東名セドリック、Drロバートレーシング・ファイアバード、ロッドモータース・カマロなど、名前を聞いただけでも想像を刺激する”やんちゃ”なネーミングのマシンが名をつらねる。レースは、その名もグラン・ナショナル・ストックカーというNAC時代のシリーズ・タイトルを継承して、NASCAR伝統の左周りにこだわった筑波ショートコース周回で開催された。最大排気量、改造無制限のS/C−GNカテゴリーにはセド・グロを中心にNAK時代を髣髴(ほうふつ)とさせる”悪っぽい”フルサイズボディの出場車両たちが名をつらねた。セドリック・グロリアでは80年代にかけて330・430型が中心となり、これにクラウンやロータリのルーチェ、カマロ、トランザムやクーガなどのアメ車が絡む出走者構成だった。エンジンプラントは排ガス規制による出力低下に対抗して大排気量化していった日産の主力OHC、L28をスープアップした3リッターチューンが主流となった。これにGM系のアメリカンV8、吸排気ペリフェラルポートの13Bなどスゴ味のきいた各界のボスキャラがグリッドに並んだ。周回数はNAC時代とくらべ、大きく短縮され筑波ショートコース30周〜40周となったが、それでも重量ボディの宿命としてブレーキのフェードが激しく、レース内容には難?があったようだが、そんなやんちゃなレースっぷりもまた愛嬌、このカテゴリの独特の見どころとなった?

 

こんな光景が奇跡的に80年代後半まで続いたが、世代的に430が退役するあたりから内容に変化が出てくる。出走車両の中心はセドリック・グロリア系に替えて、DR30世代以降はほぼスカイライン一色となり、ワンメークの様相を呈していく。(それでも、ごく稀にセフィーロやローレル、Y31の姿が見られることはあった。)周回方向も、いつしか一般の右回り周回に改められた。こうなると事実上はツーリングカーレースと選ぶところはなく、実際、レースシリーズのタイトルもグランナショナル・ツーリングカーに改めらた。かろうじでストックカーというカテゴリ名が残ったことにその面影を残したが、内容としてはアマチュア・ツーリングカーのレース・シリーズへと変貌していったようだ。時代錯誤も何のその、バブル絶頂期の日本の80年代を走り抜けた無制限改造ストッカー達は、いつしか自然消滅してしていった。そんな”やんちゃ”で”悪っぽく”、でも”伝説”とよぶにはどこか愛嬌のあるJRSCCのセド・グロ・ストッカー軍団に敬愛の念を禁じえない。JRSCCはその後も、団体の基本理念に基づく裾野の広いレース運営を続け、レース人口の拡大・育成に貢献してきたが、財政上の運営難を理由に残念ながら2008年に活動を停止してしまった。70年代以降、ツーリングカー・フォーミュラカー全盛の時代の流れにもかかわらず、80年代も終わろうという時期まで、こうした異端ともいえるカテゴリを存続させ、盛り上げてくれたレース参加者・スポンサー・JRSCC・全ての関係者の方々へ心からの敬意と感謝の意を表したい。

 

強烈なバンク角をもったハイバンク・オーバルトラックこそ本格的ストックカーレースの象徴だった。ハイバンクが生み出すストックカーレースならではの攻略テクニックや駆け引き、そしてハイスピード。ストッカーをツーリングカーと区別する最大の特徴こそハイバンク・オーバルであり、その存在なしではストッカーは早晩、ツーリングカー・レースに飲み込まれてしまうだろう。NACと塩澤進午はストックカーレースのオーガナイズを始めた60年代当初からこのことを強く認識し、国内のハイバンク・オーバルコース実現に奔走した。伊豆モータスピードウェイ、日本平スピードウェイ、陸奥湾インターナショナルスピードウェイ、何度も試みられたその夢は、しかしついにNACの活動期間中には実現されることはなかった。伊豆の高速周回路建設事業は通産大臣の承認を得ながらも政府補助事業としての援助を受ける公益法人としての財団設立が政治的な力によって阻まれ頓挫した。日本平については土地の造成まで完了し、コースの完成まで舗装工事を残すのみというところまで進んだ。誰もがその実現は確実と思ったが建設は突如中断された。地元大学の反対運動が契機となったとされるが、政治的な背景も見え隠れするこの顛末には不可解な点が多く謎につつまれている。

当時、このほかにもオーバルトラック建設プランは存在した。実はあの富士スピードウェイも当初はNASCARのフランチャイズ契約のもとでアメリカ流のオーバルトラックを建設する予定だった。その名も日本ナスカー株式会社が発起会社となり、レーストラックの建設に着手する。しかし収容地の地形の問題や高額なNASCARのフランチャイズの採算問題もあり、NASCARとの契約は破棄され、その計画はヨーロッパ流のロードコース建設へと変更された。有名な富士の30度バンクは当初のオーバルコース計画の名残りだとされる。しかし、バンク施行の技術が不十分な中、試行錯誤により建設された富士の30度バンクは本格的な使用に耐えるものではなかった。レーサ側のバンク攻略知識の問題も手伝って、同コーナでは事故が頻発し、74年に発生した大事故を機にその使用は封印されてしまう。皮肉なことにこの大事故の犠牲者にはストッカーの雄、鈴木誠一が含まれていた。鈴木は国内のストックカーレーサを代表して3年連続でデイトナのハイバンクを経験しており、その攻略法をもっとも熟知していたはずの日本人のひとりだった。悲劇的なことに、犠牲者となった鈴木自身は事故の発生原因には関わっておらず、完全なもらい事故だったという。

結局、日本国内でバンク角をもつオーバルトラックの実現は1997年の”ツインリンクもてぎ”まで待たなければならなかった。早速その翌年、98年と99年の2年連続でツインリンクもてぎのオーバルトラックでNASCARのシリーズ戦が開催されたが、その後、日本国内ではNASCARシリーズ戦は一度も開催されていない。

 

NACのストッカー・レースは鈴木誠一というスターを産んだ。鈴木はスターレーサであると同時に名チューナであり、稀代の名コンストラクターであった。そんなコンストラクターとしての鈴木の活動や開発の基盤となったのが城北ライダースのメンバとともに1968年に設立した東名自動車だった。東名自動車は当初、ストックカー向けのレース用部品の開発からスタートした。東名チューンはほどなく鈴木のレーサとしての才能とあいまって高いパフォーマンスを発揮。そのレシピはストックカーにおけるベンチマーク、デファクトとなっていく。ストックカーでの開発経験はNACやストックカーレースの終焉後も、その他のレーシングコンストラクションにフィードバックされ、さらなる進化を遂げていく。当時、鈴木が日産大森のワークスドライバとなっていたことから、東名を日産の準ワークスとする記述もあるが、当初の東名自動車は日産自身が必ずしもレース用のエンジン、車両とは位置づけていないようなモデルからも驚くべきポテンシャルを引き出して見せた。

日産のA型エンジン+サニーはその好例だった。鈴木は東名チューンのB110 A12エンジン搭載のサニーを駆って1970年11月に小排気量カテゴリの市販車レース(TSレースの前進、トランス・ニックス)に出場する。当時の同カテゴリはカローラ・パブリカなどトヨタ勢の独壇場となっており、日産のワークス活動は無論、日産から鈴木への資金的、技術的援助もない中での出場だった。鈴木はただひとりこのレースにサニーでプライベート出走し、結果は2位以下に4秒以上の差をつけて完勝。メーカさえも当時まだ認識していなかったサニー+A型の潜在的だったポテンシャルを見事に引き出してみせた。”今回は全てを自費でまかなったが、この成績を見て日産も力を入れてくれればうれしい”。勝利後の談話には鈴木の誠実な人柄が現われていると同時にコンストラクターとしての勝利感がみなぎっていた。日産ワークスが実際これに追従し、その後10年にわたってB110・310サニーがTSレースを席巻することになることは周知の通りだ。

また、ストックカー時代にトラックやフルサイズセダン用のエンジンをレース用にチューンナップした経験は、A型とならぶもうひとつの日産の70年〜80年代の主力エンジン、L型のチューニングにも遺憾なく発揮された。東名自動車および、同じく東名の創設メンバだった久保和夫が設立したチューニングショップSS久保は、L型チューニングの老舗として、プライベータ、ストリートチューンにとってのカリスマ的存在となっていった。例えばS20のような生まれながらのレースエンジンに比べれば、A型・L型エンジンはその辺にころがっている駄エンジン、その辺の解体屋で、いくらでも手に入るエンジンと言えた。東名やSS久保の真骨頂は、ひたすら頑丈かつシンプルな設計のこれら平凡なエンジンから驚くべきパフォーマンスをピックアップすることができることを証明してみせたことにあった。誰もが平等に手に入れられる平凡な素材で、チューニングやレースを楽しむことができること、アイディア次第で差をつけられることが示されたことで、プライベート・レーサ、バックヤード・ビルダー、ストリート・チューニングの裾野が大きく広がっていった。

トラック用エンジンとフルサイズセダンという、およそ”レース”とは縁もゆかりもないようなそんな素材から、独創的なアイディアと技術によって常勝レーサを作り上げてきた東名自動車の原点。ワークスを凌ぐとまで言われた東名の原点には、そんなストックカー時代のハングリースピリットとチャレンジスピリットが息づいていた。