Review TwoLane Blasktop

直訳すると”アスファルトの二車線道路”という無機質な原文タイトルのついたこの映画は、1971年にアメリカで公開された。日本では翌年に公開された後、1990年代になぜか一度リバイバル上映された。私はその再上映のときに六本木の首都高のガード下の映画館でこの映画と出会った。確か昼は違う映画を上映していて、深夜もしくは早朝のみのいわゆるレイトショウとしてこの映画を上映していた。

チューンされたV8独特の暴力的爆音とともに映画はいきなり真夜中の公道での非合法ドラッグレースシーンから始まる。公道での非合法レースであるにもかかわらず、参加車両達はバーンナウト、ドライホップと、公式レースさながらのもったいぶった作法に則って車両をウォームアップしている。ホップした車両はレースを仕切っている男達の誘導でゆっくりとバックしながらスタート地点へとステージングする。2台の車両の間に立ったアフロヘアの黒人の男が手元の懐中電灯を点灯すると、スタート地点に並んだ2台の車両は爆音と共に白煙だけを残して暗闇の奥に消えていく。左レーンを走ったプライマーの55年型シェビーは鼻先ひとつの差で右レーンのインパクトカラーのクーダよりさきにゴールすると突然ターンしてスタート地点へと引き返す。ほどなく、ゴールのはるか先の暗闇から赤灯とサイレンの音が近づいてくる。シェビーはスタート地点にもどり払戻しを受け取った相棒のメカニックを拾うと、蜘蛛の子を散らしたように逃げていくギャラリー達に混じって夜の闇に消えていく。。。

レースを取り仕切っていた男達の多くは黒人で、背中にStreet Racersという刺繍の入った同じジャケットを着ている。ストリートレーサーズは当時ロサンジェルスに実在したチームで、East LAのストリートドラッグを取り仕切っていた。このシーンの撮影にはストリートレーサーズの本物のメンバやメンバの車両が参加し、当時のストリートドラッグの様子と作法を忠実に再現している。だからドキュメンタリが持つ独特の臨場感と説得力に満ちていて、一般的にはドラッグレースとは結びつきにくい黒人による運営であることや、ストリートレースにしてはあまりに本格的かつ手馴れた”賭場”の仕切りは、それだけに逆に当時のEast LAの夜の非合法レースの緊迫感をリアルに伝えているし、同時に当時の西海岸での黒人の社会的存在感を巧みに象徴していた。

映画全体はしかし、このオープニングの爆音やテンションとは対象的に、とてもナイーブで内省的な人間関係、微妙な感情の機微 を西海岸から南部(東海岸)へ向かう1970年のアメリカの景色とともに写し出していく。”Just passing through" この映画の中では目的地(ワシントンDC)は旅・移動を続けることの言い訳程度の意味しか持っていない。感傷的になるのを打ち消すかのように旅の先々で何度なく公道ドラッグレースや地方レース場でのレースシーンが挿入される。オープニングのシーン同様、それぞれの土地の空気と独特のドキュメンタリ的臨場感を伴った映像はそれだけでも歴史的に貴重な記録だが、この映画を貫くテンションとしてもとても効果的に用いられている。冒頭のLAのシーンでは爆音とレースする車両やレース場の緊張感にいやおうなく感情移入させられるのだが、レースを経るごとに感情移入の対象はドライバの内面に入り込んでいく。爆音は依然として鳴っているのだが意識からは遠ざかっていく感覚。爆音の響き渡るレースシーンで始まった映画は最後には同じレースシーンの描写でありながら外界を完全に遮断して直線を進むドライバの内面的な音の消えた世界へと入りこみ、そして映像は幕切れをむかえる。

ロードムービーの真骨頂は旅の中で出合った者たちが、また再び別れていくときのあの感傷的な心の動きにある。それは感傷的ではあるが決して絶望的・悲観的ではなくて、むしろ現実を肯定して受け入れていこうとする感覚、出会いが自分の中にもたらした変化をもう一度とりだして噛みしめながら再び旅を続けていこうとする感覚だ。イージーライダやバニシングポイントなど、同じジャンルにくくられる映画とは対象的に、この映画ではシーンを盛り上げるためのBGMや音楽は一切用いられないし、ストーリーや登場人物の感情や意思を説明するような演出も徹底してそぎ落とされている。登場人物には名前さえ与えられておらず、ただDriver, Mechanic, Girl, GTOとタイトルロールに紹介されるのみだ。にもかかわらず、あるいはそのことによって、鑑賞する我々の感度は逆にひどく研ぎ澄まされていることに気が付く。それはまるで走るための装備以外のあらゆる装備(ヒータさえも!)を取り払ったプライマーのシェビーのように極限まで不要なものをそぎ落とした後に残ったものの確かさ、潔さ、美しさとも言える。この映画ではイージーライダーやバニシングポイントのような衝撃的な結末やヒロイズムも徹底して排除されている。それどころか唯一目的らしい目的だったワシントンに向かうレースさえほとんど放棄されてしまう。つまり、ほとんど事件も奇跡も何もおきない。にもかかわらずウォーレン・オーツが演じるGTOが彼の最後のシーンでヒッチハイカに話して聞かせるただのでっち上げ話に、我々はなぜかひどく心を揺さぶられる。それこそがこの作品が(極一部の人たちによってではあるが)極上のロードムービとして語り継がれてきている所以に違いない。