舞台は北米市場において日本車が今日のような隆盛を極めることになるまだずっと以前、1960年代中ごろまでさかのぼる。多くのアメリカ人が日本車をブリキのおもちゃ程度にしか考えていたなかったその時代に、既に日本車の持つポテンシャルに注目しているアメリカ人がいた。その男の名はピートブロック(PETE BROCK)。ピートは若くからカーデザイナーとしての才能を買われ、史上最年少でGMのデザイナーになるとコルベットのデザインチームに参加、その後キャロルシェルビーのもとでコブラ デイトナクーペのデザインをてがけて頭角をあらわす。シェルビーの主催するドライビングスクールのチーフインストラクタ時代、ピートは教習車として採用されたダットサンロードスターの運動性能を目の当たりにして、日本車のポテンシャルの高さ、日本車の急速な進歩を強く認識する。

彼はシェルビーのもとを離れると1966年にはBRE(ブロックレーシングエンタープライズ)という自身のレースチームを設立。日本滞在のアメリカ人ジャーナリストの紹介を通じて手始めに日野自動車との契約でいくつかのレースカーの作成、デザインを手がけた。中でも彼がデザインしたBREサムライという名のプロトタイプはその斬新なデザインが日本の業界関係者の注目にとまり、当時日野を買収したトヨタからもプロトタイプデザインの発注を受けるにいたる。

ピートブロックは、この流れの中でトヨタが当時発表したトヨタ2000GTをBREでレースカーに仕立ててSCCAで走らせる構想をたて、契約交渉をトヨタと進める。もし、このまま交渉が計画通り進んでいればBRE TOYOTAが誕生するはずだった。ところがトヨタは直前になり、この契約交渉を撤回し当時西海岸のトヨタ車ディーラ契約を獲得していたキャロルシェルビーにトヨタ2000GTでのレース契約を依頼する。

かつての師に契約をもっていかれてしまったかたちとなったピートブロックは、打倒シェルビー・トヨタに燃えて北米日産のレース部門にコンタクトする。しかし、ここでも意外な反応が待っていた。当時の北米日産のレース部門は設計の古いロードスターでは2000GTに太刀打ちできないと考えていたのだ。レースに惨敗することでかえってネガティブな影響、イメージが残ることを恐れた日産レース部門は彼のオファーに消極的だった。

それでも彼は日産との交渉を諦めず、日野の関係者を通じて本国の日産との間でレース参加・スポンサーシップの交渉を継続した。日野幹部の人脈もあり、北米日産のサポートのないまま本国日産本社はレース資金供給を決定、レース用の車両までも日本から供給し、ここにBRE DATSUNが誕生する。当時のBREにはドライバ、エンジンチューナ、シャシ設計者など後の業界を代表する才能が集っていた。BRE DATSUNは活動を開始するや、はやくも初年の1968年のシーズンからフランクモニス、ジョンモートン等名ドライバによりDプロダクションSO PACディビジョン優勝、1969年にもDプロダクションクラス優勝を重ね、その実力を見せつけ溜飲を下げた。北米日産のレース幹部の懸念とは裏腹にBRE DATSUNロードスターは2000GTに屈辱的なまでの実力の差をみせつけ、皮肉にもシェルビー・トヨタの2000GTの方が1969年のシーズンの終了さえも待たずにレースからの撤退を余儀なくされるという結末をむかえる。

もし、BREがトヨタと契約していたら、2000GTやセリカ、カローラをどんな風に仕立てたかは興味深い。けれども、もともと少数生産前提のスノブなモデル(2000GT)ではなく、万人のためのスポーツカー(ロードスターや240Z)をBREがビジュアル、ポテンシャルともに良質のレーサーに仕立てて見せてくれたことは日本車の歴史的にはとても幸運なことだった。それまで、ブリキのおもちゃ程度に見られていた日本車がロータス、アルファ、BMW、ポルシェ、トライアンフといったヨーロッパの名門メークスに後塵を浴びせて見せてくれたことは歴史的にも画期的な出来事だった。BREはもっとも効果的かつ確実な方法でダットサン量販モデルのポテンシャルと技術の高さをデモンストレーションする役割を果たし、北米におけるダットサンブランドひいては日本車の地位、イメージを大きく向上させた。

1970年に入るとBREはCプロダクションクラスに進出してロードスターにかわり、240Zを投入、ジョンモートンのドライブでSCCAを制した。続いて71年も240ZでCプロダクションクラスを制するとBREは240Zのレース活動を終了し、510でのTRANSAMシリーズのレース活動に移行する。日産側からの意向で既に飛ぶように売れていたZ−Carよりもセダンの販売を後押しするねらいがあった。$1700たらずのその日本製エコノミー&コンパクトセダンはBREのチューンを受けて驚くべきポテンシャルを発揮した。結果、71年、72年の連続でアルファやBMWの強豪を退けてシリーズチャンピオンに輝く。

しかし、常勝をほこったBREのレース活動はそのあまりの強さ故に72年のシーズンで幕切れを向かえる。SCCAのレギュレーションの改悪やBREの独走状態でレースを盛り上げるライバルの存在に乏しく、TRANSAMシリーズ自身存亡の危機にあった。ピート曰く”もし、ポルシェが同じクラスにいたら、もっと面白い展開になっていたはず”と当時を回顧してインタビューに答えている。

しかしBREの活動終了後も、北米での日産のワークス活動はBREのビジネスを引き継いだELETRA MOTIVEやBOB SHARP RACINGによって牽引され、衰えるどころか70年代の黄金時代を築いていく。

 

ボブシャープレーシングがBREの活動終了後の72年73年のCプロダクションを240Zで連覇すると、その後もSCCA Cプロダクションは240Z、260Z、280Zが1980年までの10年間にわたり連続してチャンピオンに君臨しつづけ、DATSUNの圧倒的な強さを印象付けた。

 

 

 

 

 

 

Zや510だけではない。B210、610、710、NEW510など、510の成功に続いて北米に投入されたコンパクトセダン達はレーストラックでもその伝統の座をきっちりと守る。

SCCA C SEDANクラスではドン デベンドーフの駆るELECTRA MOTIVEのDATSUN1200(B110)、210(B210)が1979年までの連続10年間にわたり不動のチャンピオンに君臨。

SCCA B SEDANクラスも510,610、710、NEW510、200−SX等、DATSUNの中核シリーズが70年代の10年間に渡り王者の座に君臨する。

中でもDAVE FRELLSENは710とNEW510でその中の5年間のタイトルを獲得し印象的な黄色と黒のボディカラーと共にB SEDANの歴史に名を刻んだ。

 

70年代後半にはSCCAばかりでなくIMSAへの進出も目立つようになる。280Zを中心にIMSA GTUクラスタイトルにも名を連ねた。

90年代に入るとCunningham RacingのSteve Millen、Bob Leitzinger等が300ZXで3年連続してIMSAでのGTUクラスタイトル、ドライバーズチャンピオンを獲得。300ZXは他にも89年、ロードアメリカ500KM優勝、92年〜94年セブリング12時間レース3連勝、94年ル・マン24時間レースクラス優勝(総合5位)し、日産のハイパフォーマンスイメージを再びアメリカ人に喚起した。

 

 

 

 

 

 

 

こうした準ワークスの活躍だけでなく、北米日産は古くからプライベータのレース活動を支援して、その裾野を広げてきた。BREダットサンの時代から培ってきたこの実績は今でも深くアメリカ人の記憶に刻まれ、ダットサンブランドの亡き今も日産に対するリスペクト、無形の財産として引き継がれている。今日でもアメリカ人の多くは日産に対して単なるコンパクト、エコノミーと言う日本車のステレオタイプだけでなくハイパフォーマンスメーク、モータースポーツへの情熱をもったメーカとしてのイメージ、信頼を強く抱いている。